20210512

 

最近見た性教育動画の中でタレントのSHELLYが、世の中の意識を変えていく為にはまだ目覚めていない人たちの協力が必要不可欠なので、少しずつ優しく起こすのが大切だと言っていた。

 

又、その動画を見た際、随分前にTwitterで見た、友人に生まれた子供の性別を聞かれたので「本人が決めることです」と答えたというツイートをした夫婦に対して、友人もそんなつもりで聞いたのではないだろうに可哀想・それはマウントを取りたいだけだろう等の批判が集まったことを思い出した。当時私自身もなんて失礼で意地悪な返答だと思った。

 

例えこちらの意見が〈正しい〉としても、相手を責めるのは余計な分断を生む。生まれた分断は、確実にじりじりと自分の首を絞め続ける枷となる。

のは、百も承知なのだが、やはりやりきれない思いで一杯になってしまうことがある。

 

私個人的な人生における大きな関心事として性差別、性犯罪がある。殊に、〈女〉〈子ども〉についてである。

それは、自分が〈女〉であり、かつては〈子ども〉でもあったからだ。経験に基づいた怒りによるものだ。この話題に関して、私はどうしても熱が入ってしまう。実際人権ひいては生き死にに関わる切実な問題なのだ。

 

このように銃を突きつけられている場合でも、相手を口撃することも叶わないのか。あまりにも差し迫った状況下で、怒り方すらも制限されなければならないのだろうか。

 

等と考えていると、疲れて何も出来なくなり、あ〜ぜんぶ辞めた〜い、になってしまうのである。

 

私は人(に限らず生物全般)と関わった以上は、大なり小なり責任が伴い、都度背負っていかなければいけないと思っている。又親密度が上がれば上がるほど自分とその人とを隔てる境界があやふやになる。友人が傷付いている姿を見て自分もしんどくなる、といったように。そこにはたしかな誠実性がある。

 

他者と誠実に向き合う場合、自分が違うと思ったことは出来うる限り解像度を上げた説明を添えたうえで「違う」と発言しなければならない。(親愛なる人びとを面前に「違う」と言うことは、なんと恐ろしいことだろうか)

必要ならば、もがき苦しみながら、怒りで溺れそうになりながらでも、頭をよしよししながら一生懸命に気持ちを伝えなければならない。

それが、果たさなければならない責任だと思う。

 

勿論、考えを強制するなんてことはありえないし、その後自分が傷つき続ける事態に発展するならば付き合いをやめればいいだけの事だ。

(主張した事が間違っていたなら改めればいい、後日考えが変わったら変わったと言えばいい。のを、前提として。必ずしもこちらが〈正しい〉とは限らない)

 

私は心が広くない。優しくもない。金の余裕もなければ身体も強くない。よって背負える数が圧倒的に少ない。交友関係が狭いのも頷ける。だけれども今背負っているぶんの責任は全うしたいし、これからも誠実に向き合える命を地道に増やしていきたい。しかしそれ以外は今のところどうにも出来ないとも言える。がび〜ん。

本当はまるっと地球を救いたいけれども。